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#139 広島カープ勝利の使者「黒田博樹」

 今回は、2015年シーズンから広島カープへ電撃復帰を決めた黒田博樹投手をとりあげようと思う。今回の復帰劇については、今シーズン早々ではあるもの今年のプロ野球最大のニュースになるかもしれない出来事だった。ロサンゼルスドジャース、ニューヨークヤンキースでローテーションピッチャーとして7年間プレーし、79勝79敗を上げた日本人で2番目に成功している先発投手となった黒田が、単年20億の契約を蹴って年俸4億の広島カープに帰ってくる。
 このニュースが最初に流れた時は本当に信じられらなかった。毎年1年契約を結んでいた黒田に広島がダメ元でオファーを出すのが恒例行事だったため、それの延長線上の遊びかと思っていたが、紛れもない事実だったのである。つまり広島は意外な形で現役バリバリのメジャーリーガーを獲得することに成功したのである。

 黒田本人の広島への愛着はすさまじく強いことがうかがえる。今シーズン40歳を迎えるに当たり、スポーツ選手としてもう引退まで間がないということを考えたうえで、最後は広島カープで投げることを選択したということだった。普通の人間には20億を蹴って4億を取るなんてことは到底できないが、黒田の実直で情に厚い性格だから成せたことなのだろう。

 そんな黒田投手の歩んできた道を少し振り返りたい。出身は大阪、父は南海ホークス→高橋オリオンスの元プロ野球選手黒田一博選手。父が監督を務めるボーイズチームオール住之江で活躍、当時名門であった上宮高校に進学をするも、高卒でプロ入りを果たす西浦克拓にエースの座を譲り、高校時代は無名の存在であった。ヤンキース時代にこの高校時代の練習のハードさを語った黒田だったが、そのあまりに過酷な内容にアメリカ球界をドン引きさせている。

 大学は専修大学へ進学、大学で力をつけエースになった黒田はチームを引っ張り専修大学は東都1部リーグへ昇格を果たす。その年からスピードガン表示が始まった神宮球場において、大学生初の150km/hを記録した。ストレートの速さとタフネスぶりを買われ、広島カープに逆指名ドラフト2位で入団を果たす。初先発から4年間ほどは典型的なノーコン速球派ピッチャーだったため、好不調による波が激しかった。しかし2001年から安定し始め、佐々岡真司から開幕投手の座を奪いエースとなる。2005年には横浜のエース三浦大輔と投げ合い、お互い0対0のまま延長12回を投げ抜き引き分けなど熱い投手戦を演じている。この年黒田は15勝を挙げ最多勝を獲得、さらには同僚の新井貴浩が43本塁打で本塁打王を獲得するも残念ながら広島は最下位に沈む。
 
 翌2006年にはWBC日本代表へ選出されるも、練習試合で右手に打球を受け負傷し本戦の出場を辞退する。シーズンは6月まで5勝6敗と振るわなかったが、7月以降は無敗で8勝を上げ13勝6敗、セパ14年ぶりの先発シーズン防御率1点代となる1.85を記録、当時狭かった広島市民球場をホームにしての1点代は非常に価値がある結果であった。国内FA権を取得していたが行使せず広島への残留を決めた。

 2007年オフに海外FA権の行使を発表、メジャーリーグのナリーグに所属するロサンジェルス・ドジャースへ移籍が決定する。メジャーでも先発ローテションを守り、4年間で41勝46敗を記録、負け越したもののその援護点の少なさから同情の声も少なくなく、メジャーの先発市場でも高い評価を受けていた。2012年からはニューヨークヤンキースに移籍、ここで自身キャリアハイの16勝とメジャー通算50勝、日米通算150勝を挙げる。3年間のヤンキース時代も安定したピッチング内容で3連続2ケタ勝利、平均200投球回を達成ししっかりとローテーションを守り投げ抜いた。もちろん14年シーズン後にはヤンキースやその他メジャー球団からの誘いもあったが、広島カープへ復帰を決断、今に至るというわけだ。

 黒田は日本時代は150kmを超えるストレートを中心にスライダー、フォーク、高速シュートを軸に相手に的を絞らせないピッチングを主体としていたが、メジャーに移籍した際に大きくモデルチェンジを果たした。綺麗なストレートはメジャーでは恰好の的になってしまうため、ツーシームにシフトチェンジをおこなった。このツーシームも広島時代に投げていた高速シュートを改良したもので、時には150km/h以上のスピードで鋭く曲がり落ちる。このストレートの改良はもちろんだが、広島時代から投げていたスライダーと、スプリットの評価は海外でも高い。

 日本で現役バリバリのメジャーリーガーがみられるという大きな期待を背負って帰ってきた黒田投手。広島を優勝させるべき現れた真の助っ人として活躍することはできるだろうか。今からその肩に期待が掛かる。
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テーマ : プロ野球
ジャンル : スポーツ

#138 球界の頭脳と呼ばれた男「古田敦也」

 NPB最強の捕手とは誰か?

このテーマについてはよく語られるところである。昨年発表されたNPBオールタイムベストナインでは、月見草こと野村克也が選ばれた。その実績と言えば、盗塁阻止のためのクイックモーションの開発、クローザーという概念の構築、プレイングマネージャーとして南海ホークスを優勝に導く、通算本塁打2位の657本、通算最多試合出場数3017、戦後初の三冠王に輝き、名実ともに最強の捕手であるといえよう。監督としても90年代にヤクルトスワローズを黄金時代に導き、新設球団楽天イーグルスを初のAクラスに導いた。まさに不世出の最強捕手だ。

 しかし野村克也氏が活躍したのは50年代から70年代にかけて、今語るにはもはや神話のような領域の話なのでイマイチピンと来ないのが正直のところ。なので第二に語られる捕手黄金時代の話を少ししよう。実は黄金時代と言ってもごく最近のことで、ほんの10年ほど前のことだ。城島健司、里崎智也、阿部慎之介、矢野燿大、谷繁元信、伊東勤、相川亮二、ぱっと思いつくだけでもこれだけの選手が同時に存在していたという事実、20年に一度クラスの捕手がこれだけ一堂に会したというのは奇跡と言っていいだろう。そして今回ご紹介したいのは、これだけの強力な捕手がひしめいていたNPBにおいて、球界の頭脳とまで評された男。

 「ミスタースワローズ」こう書いたとき、大半の人は彼を思い浮かべるだろう。
プロ野球において花が投手ならば、まさに花を支える土こそがキャッチャーの役目。地味でありながら過酷な役回りであるキャッチャーという守備位置を、これほどまでに鮮やかに、そしてキャッチャー対バッターという形を作りあげた彼こそが今回取りあげる古田敦也氏である。

大学社会人卒での2000本安打達成、4打数連続ホームラン、捕手最多の8度のシーズン打率3割、入団2年目での首位打者獲得などその打撃センスも称賛に価する選手であったが、まさに古田が評価されている部分は「捕手はかくあるべき」という姿を体現していたところにあるだろう。

 ID野球の申し子、球界の頭脳と呼ばれた。野村克也氏率いるヤクルトスワローズの緻密なデータ野球は古田の存在なしでは行えなかったといってもいいだろう。相手の意表を突く配球術、ボール球をストライクに変えるとまで言われたキャッチング技術や、投手にとって絶大な安心感を与える強烈な盗塁阻止技術(強肩はさることながら、とにかく捕球してから投げるまでが早かった。)はまさにNPB史上NO.1、シーズン盗塁阻止率.644と通算盗塁阻止率.462はともにNPB記録となっている。さらには当時のヤクルトの守備隊形はすべて古田が自身の配球を元にして決定していた、まさに扇の要だった。このことを総合して、打者は古田と戦っているとまで形容された。

 そして古田がさらに評価を高めている部分は、その風貌にあるだろう。彼のイメージとしてメガネから連想される頭脳的という印象はまさにそのまま武器となった。古田の入団当時は「メガネをかけた選手は大成しない」という風評が色濃く根付いていた時期だったため、古田もプロ入りに難儀する形となったが、彼が活躍して以降その声もなりをひそめた。球界の頭脳と呼ばれた古田は絶大な信頼を持って2004年のプロ野球再編問題に選手会長として立ち向かい、「2リーグ12球団制の維持」を求め、プロ野球史上初のストライキを決行。球団の新規参入の確約を取り付けるなど、現在のプロ野球を残すために注力したのも記憶に新しい。
 そして大舞台での強さも特筆すべき部分だろう、日本シリーズMVPを2度獲得している上、さらにはオールスターゲームでは唯一のサイクルヒットを達成している。

2006年には、師である野村克也氏以来29年ぶりのプレイングマネージャーに就任。それまでの古田のイメージであった手堅い采配を取るかと思われたが、1番から5番までに3割20本が期待できるバッターをずらりと並べた超攻撃的布陣を敷き、周囲を驚かせた。さらには「代打俺」と自身が代打で打席に入るシーンは大いに球場を沸かせた。総得点もリーグ1位になり、その采配は見事的中したと言っていいが、残念なことに投手陣が不調に見舞われ、勝ちを積み重ねることはできなかった。

翌2007年もチーム成績は振るわず、また自身の衰えもあり、シーズン限りでの監督退任、選手引退を発表。背番号27は球団初の名誉番号として残されることになった。
生涯一捕手を貫いた師でもある野村克也氏と特に重ねて語られることが多く、プレイングマネージャー就任などもまさにその影響の最たるものと言っていいだろう。長嶋茂雄、松井秀喜両名が国民栄誉賞を授与されたが、まさにこちらの師弟は月見草の如しと言えよう。2015年1月には野球殿堂よりプレイヤー表彰にて選出され、師弟ともに殿堂入りを果たした。

既に引退から8年が経過し、今は昔というイメージがあるものの、古田は今年で50歳を迎える。とすれば山本昌投手と同い年というわけだ。そう考えればまだまだ老け込むような年ではない。ここ2年低迷を続けるヤクルト、彼の帰りを待つ人の声も多くなってきた。今一度彼の積み上げた野球を今の世代へ授けてほしい。

テーマ : プロ野球
ジャンル : スポーツ

#137 近鉄最後のエース・楽天最初のエース「岩隈久志」

 2004年、日本球界は未だかつてない危機に面していた。1950年から始まったセ・パ2リーグ制を根幹から揺るがす、プロ野球再編問題。大阪近鉄バファローズがオリックスブルーウェーブへ吸収合併に伴いバファローズの消滅、パ・リーグが5球団になり現在のセ6球団パ6球団の均衡が失われるという事態に発展。50年ぶりに新球団東北楽天ゴールデンイーグルスの参入により、この危機もなんとか脱することになる。
 しかしこの再編問題により、振り回されたのはファンだけではなく、プレーする選手こそ一番の被害者であった。
唐突に所属するチームが消滅することになった近鉄バファローズ最後のエースとなった男、そして記念すべき楽天初のエースとなった男、岩隈久志を今回取り上げようと思う。

 小さい頃はライオンズ球場に通い詰めるほどの西武ファンだった岩隈、その後堀越高校(先輩には中日ドラゴンズ→読売ジャイアンツの井端弘和がいる)に進学し、高校時代は西東京大会ベスト4まで進む。その後1999年のドラフトで近鉄バファローズに5位指名を受けて入団。一年間は二軍で過ごし、頭角をあらわしたのは2001年。奇しくも近鉄最後のシーズン優勝の年、いてまえ打線と呼ばれた超強力打線のおかげもありプロ初勝利を挙げる。その強力打線の裏では手薄であった投手陣の中で貴重な戦力としてシーズンで4勝を上げ初完封も記録、日本シリーズ第二戦にも先発している。

 翌年から先発ローテに定着、21歳にして結婚を決める、この年は8勝7敗と順調にステップアップをしていく岩隈だったが、翌2003年には15勝10敗と完全にエースの座を奪う。そして近鉄最後のシーズンになった2004年には球団記録である開幕12連勝を達成。15勝2敗を記録し最多勝と最優秀投手のタイトルを獲得。オールスターにも投手部門一位で選出され充実したシーズンを送る。

しかしこのシーズンを持って近鉄バファローズは消滅。それに合わせてオリックス主導による選手分配ドラフトが行われ、岩隈はオリックスへ分配されるもこれを固辞。楽天との金銭トレードという形で東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍することになる。

 2005年の開幕戦、エースとして登板した岩隈は、1失点完投勝利を上げ、楽天へ球団初勝利をもたらす。しかし、肩の故障等もあり9勝15敗、規定最下位の防御率4.99という不本意な成績に終わる。翌2006年はトレードマークであった2段フォームが禁止となり、新フォームへの変更を余儀なくされる。なかなかフォーム固めは思うように行かず、8月半ばまで試合に出ることすらできず、1勝2敗に終わる。2007年シーズンも開幕投手を務めるものの、相次いで故障し不本意なシーズンを送ることになる。

 そして満を持して望んだ2008年シーズン、岩隈は凄まじい活躍を見せる。21勝4敗、防御率1.87、リーグ最多の201イニング、28先発、シーズン被本塁打3本、最多勝、最優秀防御率、最優秀投手に輝き、投手最高の栄誉である沢村賞を獲得。とくに200イニング以上を投げ、シーズン被本塁打3本という記録は50年ぶりの記録であり、そのうち2本は交流戦時に打たれたものだったため、パ・リーグ相手にはソフトバンクホークスの松田宣浩選手に許した1本しか打たれなかった。シーズンMVPまで獲得した岩隈であったが、残念ながらチーム自体は5位に沈む。
 
 2009年にはWBC日本代表に選出される。キューバ打線を完全に押さえ込み、2度の韓国戦先発においても好投、大会MVPこそ3勝をあげた松坂大輔に譲ったものの、影のMVPとして内外から非常に高い評価を受けた。とくに天候不良によりエラーが多発したキューバ戦では、野手が守りやすいようにゴロを打たせるピッチングを見せ、フライをたった3本に抑え、その圧倒的なピッチングにキューバは手も足も出なかった。

 レギュラーシーズンにおいてはWBCでの疲れが出てしまったのか、自身ワーストの一試合4被本塁打を浴びる等精彩を欠くシーンも見られたがチーム2位タイの13勝を上げ、楽天はついにシーズンを2位で終える。念願の初のクライマックスシリーズ、ファーストステージのソフトバンク戦では見事第1戦で完投勝利を上げステージ突破に大きく貢献、しかし日ハムとの第2ステージでは2試合目先発したものの敗戦、チームの後がない第4戦にリリーフで出場したものの、日ハムのターメル・スレッジに3ランを打たれチームは敗退、岩隈も涙を流した。

 2010年には通算100勝と1000奪三振を達成し3年連続2桁勝利を挙げ、安定感を感じさせるシーズンとなった。そしてそのオフにメジャー挑戦を表明するも、契約の折り合いがつかず残留。翌2011年には怪我による不調で思うような結果を残せないままだったが、オフに海外FA権を行使して、メジャー挑戦。シアトルマリナーズと契約を交わした。

 メジャーに渡ってからの活躍も目覚しい。移籍当初こそ不当な扱いを受けたが、一度出番を与えられてからは先発ローテに定着し、1年目は8勝4敗を挙げる。2年目はリーグ7位の14勝、200イニング、9イニングあたりの平均与四球率リーグ2位の1.01と与四球の少なさが目立つ非常に安定した成績を残し、サイヤング賞投票でもマックス・シャーザー、ダルビッシュ有に次ぐ3位に選ばれる。3年目も怪我で出遅れたものの、自身最高の15勝を上げ来シーズンの活躍を期待される。

 岩隈は非常に器用な選手である。近鉄時代は彼の代名詞でもある右腕をだらりとたらし、左足を2回挙げる特徴的なフォームからMAX153km/hのストレートと大きく曲がるスライダーを武器に相手を翻弄していたピッチングスタイルであったが、度重なる故障と2段モーション禁止によりピッチングスタイルを変えた。現在は平均145km/hのストレートとスプリットや小さく曲がるスライダー、内角に切り込むシュートを駆使しゴロアウトを量産する。何よりその優れたコントロールにより四球からのピンチを招くことがないのも安定した成績を残している要因である。
近鉄時代は長身に細身、芸術的な独特なフォーム、茶髪に染めたロングヘヤーという風貌からなにわのプリンスと呼ばれた。いまではその頃から想像もつかないガッシリとした体格、まさにメジャーリーガーと呼ぶにふさわしい物になっている。

 ダルビッシュや田中将大が注目を浴びる中、岩隈は影が薄い扱いであるが、米国での評価は非常に高い。来シーズンに向けマリナーズもいい選手が揃ってきた。チームが落ち目であるダルビッシュや田中よりもワールドシリーズに近いところにいるだろう。マリナーズのエース、フェリックス・ヘルナンデスとの2枚看板として期待されている。今シーズンの岩隈の肩にかかる期待は大きい、頑張って欲しいものだ。

テーマ : MLB
ジャンル : スポーツ

#136 そしてもう一方「一人称RPGと三人称RPGその3」


 前回は一人称RPGについて書かせていただいたが、今回はもう一方の三人称RPGについだ。前回記した通りではあるが、FFやテイルズなどが該当するこの分野の肝の部分を見ていこう。一人称RPGではプレイヤー=主人公という立ち位置であったが、三人称RPGではプレイヤー=ストーリーテラーと言っていいだろう。
作品内でひとつの個として成立している主人公の意思を具体化する存在がプレイヤーだ。あくまで傍観者という立ち位置であるため、ゲームの楽しみ方としては小説や映画に近しいものがある。現にFFやテイルズはゲームに主題歌がついていたり、アニメ化しているものも多いし文庫版も多数出ている。メディアミックスをあらかじめ想定しているかのような作りであることが伺える。

もう一つの奇妙な偶然を見つけた、あくまでDQ&ポケモンとFF&テイルズでの比較でしかないが、この二組はそれぞれ戦闘部分を切り出しても前者は根本的に最初の作品から大きく変化が無い、がしかし後者は目まぐるしく変化を続けているという部分で大きな違いを見た。前者の2作品がすでに完成されたシステムを持っていたのか、はたまた後者があくなき探究心を持って進めていったからなのかは不明だが、DQに求められているのは「不変」であり、FFに求められているのは「先鋭」であるというのは強く感じる部分でもある。

FFが2の時点で三人称RPGに舵を切ったことによりDQFFという2大巨塔が生まれた、これがもしFFが1の路線のままだったら、これほどの成功はあっただろうか。やはり作品の個性というものは必要不可欠なものだと改めて気づかされた次第である。

以上終わり。

テーマ : ▼ゲームの話
ジャンル : ゲーム

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Author:ppsnuwa
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野球とF1とゲームと漫画をこよなく愛す
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