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#159 生ける伝説「宮本茂」


 「マリオシリーズ」、「ゼルダの伝説シリーズ」、「ドンキーコング」、「ピクミンシリーズ」、世界的にもよく知られたこれらの作品はある一人の男が企画した。その男の名は「宮本茂」、世界で最も有名なゲームクリエイターであり、世界最高のヒットメーカーである。
今回は前回取り上げた竹田玄洋氏と連名で任天堂の代表取締役に就任したこの宮本茂氏(以下、宮本)を取り上げる。

 今更?と言われても仕方ないが、今回の一連の任天堂重役特集のトリを飾るのはもちろん宮本氏だ。上記のように任天堂の人気タイトルを数多く手がけたわけだが、そんな宮本氏の足跡を辿ってみよう。


1.入社~現在まで

 1952年京都府南丹市生まれ、学生時代は漫画家を志していた。大学卒業後、父親が任天堂前々社長の山内溥と友人だったため、特別に面接の場を設けてもらい、山内の「ものづくりができる社員が欲しい」という眼鏡に叶い、1977年に入社する。入社当初はかるたの版下のデザインや、麻雀のラベルの作成などの仕事を行っていたが、1979年頃からインベーダーゲームのブームに乗ってゲームセンターの筐体の制作に任天堂も掛かることになる。
この頃より、絵が描けないスタッフに代わって宮本がデザインを行うようになる。
 
 そして翌1980年に転機が訪れる。Nintendo Of America(NOA:任天堂のアメリカ支社)でゲーム筐体の大規模な在庫問題が発生する。在庫処分のために新しいゲームを開発して、筐体に差し替えることになった任天堂。この際に社内で誰が新しいゲームを作るかというコンベンションが行われる。これまで横井軍平氏や竹田玄洋氏等ハード畑の人間主導で制作されてきた筐体ゲームだったが、ここで横井軍平氏が「ソフト側の人間に作らせてみてはどうか」という案により宮本が推薦された。当初アニメ「ポパイ」をテーマにした作品の予定だったものの、版権問題により頓挫してしまう。しかし宮本がキャラクターを書き直し、ゲーム内容についても積極的にアイデア出しを行い完成させたゲームこそが「ドンキーコング」だった。
 主人公マリオが巨大なゴリラドンキーコングにさらわれた恋人レディ(米版ではポリーン)を助けるべく、ビルの最上階を目指すこのゲーム。米国で大ヒットした映画「キングコング」をモチーフにしたと取られがちだが、もともとはポパイのゲームになる予定だったため、プルートがオリーブを拐かし、それをポパイが追うというゲームをオリジナルキャラに置き換えただけである。ちなみに世にマリオが登場した初めての作品でもある。それについては#133のスーパーマリオブラザーズの回に詳しい。

 しかしながらややこしいことも事実、実際に任天堂は著作権の侵害として1982年にユニバーサル映画社より訴訟を起こされている。この際に任天堂は「ユニバーサル映画が同訴訟を提起したことは『ドンキーコング』の名誉を毀損した」と反訴し、真っ向勝負にでている。この際にユニバーサル映画社が1976年に発表したリメイク版「キングコング」自体、1933年制作のオリジナル「キングコング」の版権を取得せずに制作が行われたという事実が発覚。そのためユニバーサル映画の訴えは棄却され、さらには任天堂の訴えである「ドンキーコングとキングコングは別物」という主張が認められ、ユニバーサル映画より損害賠償を勝ち取った。この一件を境に任天堂法務部と戦ってはならないという暗黙の了解が出来上がったといわれる。

 ドンキーコングの大ヒット以降、宮本はソフト開発に従事することになる。1983年には「ドンキーコングを家庭で遊べるように」を合言葉にファミリーコンピューターが完成。エキサイトバイクやマリオブラザーズ、スパルタンXの制作に携わったのち、1985年にはあの「スーパーマリオブラザーズ」を制作する。本作は全世界的にヒットし、ファミリーコンピューターの全世界販売台数8000万台の約半数に上る4000万本の大ヒットを記録。まさにファミコンの顔と呼べるソフトになった。

 その翌年に任天堂はファミリーコンピューターの周辺機器として、ディスクシステムを発売する。この機器に用いられるディスクデバイスは、当時ファミコンソフトの3倍の容量を持っており、しかもゲームソフトにセーブすることが可能というまさに夢のような周辺機器であった。このディスクシステムはフロッピーディスクと勘違いされやすいが、実は微妙に規格が違っているため、フロッピーとの互換性はない。しかしこのディスクシステムは容量の増加のみならず、一つの挑戦でもあった。
 当時日本のゲーム業界では表舞台に立ってはいないものの、少量のPCゲームが根強い人気を博していた。「ザ・ブラックオニキス」「ハイドライド」、「ドラゴンスレイヤー」、「ザナドゥ」、「イース」などなど、BPS(光栄の子会社)、T&Eソフト(現スパイク・チュンソフトに一部吸収)や日本ファルコムなどの国産PCゲーメーカーが作るアクションRPGが特に人気があり、任天堂はこの層を取り込むため、そして当時のフロッピーディスクに対抗可能であるということを示すため「ゼルダの伝説」を制作した。
 このゼルダの伝説も大ヒットを博す。アクションゲーム・パズルゲームという印象が強かった任天堂に、RPGのピースをはめ込んだゼルダの伝説は、いまやマリオに並ぶ人気作になっている。海外での評価も高く、シリーズ続編の「ゼルダの伝説時のオカリナ」は海外最大手ゲームサイトの投票で、NO.1ゲームの称号を頂いているほどだ。

 この頃から任天堂のソフト開発部の中心となり、あらゆるゲームにプロデューサーという形で関わるようになる。ヨッシーアイランドやポケモン、カービィ、F‐ZERO、MOTHER、どうぶつの森などなど任天堂の発売タイトルにはほとんど関わっている。
しかしながら地位が上がれば上がるほど、開発現場から遠ざかってしまうことに。2002年には専務取締役に就任。しかし2006年のwiiリリース期あたりから、前社長であった岩田氏の「宮本はなるべく開発現場にいるべき」という方針のもと、専務という役職ながら軽いフットワークを持って開発に関わっていた。そして現在は開発本部長と専務を半ば兼任している状態である。


2.宮本の開発への姿勢と恐怖の開発本部長の面

 宮本のゲーム製作のスタイルは、時期によって少しずつ異なる。1980年代は過去の体験が反映されたものが多かった(幼少期の遊び→スーパーマリオやゼルダなど)。この自身の体験を反映させるというものはポケモンを開発した田尻智氏も語っており、ヒットメーカーとしての必須条項を言ってもよいものかもしれない。
 2000年代になると現在進行の日常生活と密接に連動しているものが激増した。「ゲームを生活の道具にする」という路線を打ち出したためであり、任天堂本社からインタビュー等でみだりに日常生活についてしゃべらないように注意を受けているとも言われている。しかしながら一貫しているのは未完成なまま完成させないということと、宮本をゲーム開発に導いた横井軍平のポリシー「枯れた技術の水平思考」からの影響も見える。

 「プレイヤー=主役キャラクター」とし、世界観等をプレイヤーの想像力と印象を重要視する制作姿勢を打ち出している。それにより、ゲーム中に登場するキャラクターにボイスを採用することには余り重きを置いていない方策を取っている。これはイメージの固定と一元化を避ける理由からである。前述の理由から特にプレイヤーキャラクターには喋らせない方策を取る場合が多い。ただし、音楽と効果音に対してはこだわりを見せている事が多い。これはゲームプレイへの没入感や爽快感とも密接に関わっているという持論のためである。また、ゲームで物語を語る事や登場人物の背景よりも、人物そのものが持つ個性を魅力的に描く事が好みであると答えている。


 宮本のソフト制作は一切の妥協を許さない。その経験と誰も比肩することができない実績と地位を持って必殺の「ちゃぶ台返し」を行う。1本のソフトに注力する立場から、任天堂関連ソフトを全て監修する立場になった宮本だったが、もちろん開発中のソフトにダメ出しを行うこともままある。「ちゃぶ台返し」とは宮本のチェックの上、強権を発動して白紙に戻すという荒業のことを指す。これにより進捗を全て戻されたゲームから、ところどころの修正を加えた結果、全体が変わっていた物まで多数。有名なちゃぶ台返しを食らったタイトルは「星のカービィ」が挙げられる。当初ティンクル・ポポというタイトルで2万3000本の発注を済ませていたにも関わらずちゃぶ台返しが炸裂。発注をキャンセル下挙句タイトルまで変わるという荒業だったが、カービィはミリオンセラーを記録。大ヒットシリーズとなった。先述の「ゼルダの伝説時のオカリナ」や「ゼルダの伝説トワイライトプリンセス」でもちゃぶ台返しが行われており、そのため販売延期が何度もなされた背景がある。このちゃぶ台返しは開発陣に恐れられており、アメリカの開発者曰く「宮本茂氏の来訪は、(スター・ウォーズに例えると)銀河皇帝のデス・スター訪問並みの恐怖」という発言にもみられるように、国内外問わず恐れられている。

3.海外での評価
 
 マイクロソフトが2002年にXBOXでゲーム業界へ殴り込みをかけた際、まず宮本の引き抜きを敢行した。その条件提示としては「現在の給料の10倍」というもので、推定ではあるが10億を超えるであろうその条件提示を宮本は蹴っている。更にはフランス政府より芸術文化勲章のシュヴァリエ賞を授与されている。現在日本人受賞では小説家、美術家、学者、役者、映画監督がほとんどだが、その中に一層宮本の名は異彩を放っている。スペインからはアストゥリアス皇太子賞も授与されており、芸術部門では日本人唯一・賞全体を見渡してもわずか4名という非常に日本人の選出が限定されている中での受賞となっている。
 逸話としては、ポール・マッカートニーに食事に招待され、息子のためにサインをねだられたり、スティーブン・スピルバーグと一緒にwiiを遊んだり、TIME誌による60年以内のアジアの英雄に最年少で選出されたり、世界で最も影響がある100人に日本人としてトヨタ自動車社長と一緒に選出されたりと、とにかく海外での評価が非常に高い人物である。
もちろん業界内での評価も高く、2009年6月には、世界中のクリエイターからも尊敬されている事例として、イギリスのDevelop Conferenceで行われた「ゲーム開発者にとっての開発業界のヒーロー」(game developers' game development hero)にも、世界中のクリエイターから集計された9000票の内の3分の1もの票数を獲得し、ヒーローに選ばれている。
 むしろ日本での評価が低すぎると言ったほうがいいだろう。仮にゲームが好きの人でも、誰が作っているかまで気に止める人は少ないだろう、そしてその注目度もジャンルによってバラつきがある。RPGが特にクリエイターの注目度は高いだろうか、しかしながらアクションゲームは後ろに回ってしまうだろう。そんな中で日本が世界に誇る天才を見失ってしまうのは少しもったいない。
 その他ゲーム業界による賞を多数受賞しているが、そのほとんどは賞の設立と同時に受賞している。つまるところまずは宮本、そして次回からそれに続く人を探そうというものであり、いかに宮本がゲーム業界においてずば抜けた存在であるかを物語っている。


 かなり長きに渡り宮本氏をおさらいしてきたわけだが、これでもほとんど書ききれていないというのが現実だ。つまるところ最強のクリエイターが代表取締役になったというわけだが、これを機に開発から遠のくということだけは避けていただきたい今日この頃。
 任天堂の新時代を切り開いてくれると信じて、一連の任天堂特集を終えたい。

関連項目#158 任天堂影の立役者「竹田玄洋」
関連項目【番外編】不遇のプログラマー「岩田聡」
関連項目#142 日本ゲーム業界のパイオニア「横井軍平」
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#158 任天堂影の立役者「竹田玄洋」

 前回、番外編として岩田聡氏を取り上げさせていただいた。私にとってあまりに大きなニュースだったため、取り上げざるを得なかったという方が正しいかもしれない。あの衝撃のニュースから1週間以上が経ったが、もはや気にかけている人はあまり多くないのかもしれない。衝撃的な代表取締役の交代劇となった任天堂だが、では後任にあたる2人の専務とはいったいどういう人物なのかに触れてみたい。

 一人は竹田玄洋氏(以下、竹田)、別名「ファミコン少年の救世主」。任天堂への入社は1972年までさかのぼる。静岡大学工学部電気工学科を卒業し一度は三洋電機へ入社したが、のちに任天堂へ入社した。入社当時任天堂はまさに過渡期に直面しており、トランプや花札の販売から様々なジャンルへ手を広げ始めていた頃であった。マジックペンを販売してみたり、ラブテスターというおもちゃを販売してみたり、光線銃という玩具が大ヒットしたりとにかくいろんな種類のおもちゃを販売していた。

 そんな中で少しずつ脚光を浴びていたのがアーケードゲームであった。竹田が任天堂に入社した1972年という年は実はビデオゲーム元年と言っていい年である。アメリカではアタリが初のアーケードテレビゲームとして「PONG(ポン)」を発売し、マグナボックス社は史上初の家庭用ゲーム機「Odyssey(オデッセイ)」を発売したのはこの年。アメリカで大ヒットしたゲーム市場はもちろんだが、その波は着実に日本にも押し寄せていた。

 そのころ日本のゲームセンターと言えば、メダルゲームが主流。スロットや競馬ゲーム等カジノや公営ギャンブルを模したものが多かった。任天堂はこの波に乗ろうとメダルゲームの開発に着手。1975年に「EVRレース」という競馬ゲームを開発している。この作品は任天堂初のビデオゲームとなり、この作品に携わった竹田は任天堂初のゲームデザイナーとなった。

 その後1978年のインベーダーゲームの大ヒットに伴い、日本にもビデオゲームが広まった80年代に突入すると、「パンチアウト」や「ポパイ」などアーケードゲームの制作に携わることになるが、竹田の真の顔はハード屋であるというところだ。

 1977年に任天堂は家庭用ゲーム機の「ビデオゲーム9」と「ビデオゲーム15」を発売し、この作品のヒットと、横井軍平により制作された「ゲーム&ウォッチ」の大ヒットにより、ゲーム市場への転換を図っていた、そして1983年にはあの「ファミリーコンピューター」を発売する。しかし発売当初のファミコンにはある弱点があった。
 その弱点は1986年に「ドラゴンクエスト」が発売された頃に顕在化し始めることになる。ドラゴンクエストが日本にRPGを広めたことで、ドラクエを追い越せ追い抜けとRPG作品が一気に増加、しかしRPGは一日でクリアできるようなゲーム内容ではなく、中断を余儀なくされる。しかしながら当時のファミコンにはセーブ機能というものが存在していなかった。そのため「ふっかつのじゅもん」を代表とするパスワードを入力することでゲームを再開することになるのだが、これがドラゴンクエスト2の頃には50文字を超えるようになり、煩雑さが加速。しかも当時のファミコンでは濁点と半濁点がわかりにくかったりと入力ミスが多発。「ふっかつのじゅもんがちがいます」という呪いのワードに当時の小学生は苦しめられたものだった。

 そんな少年たちを救いだしたのが他ならぬ竹田だった。バッテリーバックアップシステムというファミコンやスーパーファミコンなどで採用された方式で、ソフトにリチウム電池を搭載することでゲームデータの維持を可能にした。これによりドラゴンクエストⅢはセーブが可能になった。これが無ければもちろんドラクエⅢもパスワード方式になっていただろうが、その時想定される文字数は最低でも140字から最大440字まで必要だったとされる。まさに竹田はファミコン少年の救世主となったわけだ(しかしながらセーブが消えやすいファミコンにおいて別の悲劇を生み出すことになったのは言うまでもない)。

 その後竹田はNINTENDO64やゲームキューブ、wiiの開発責任者を歴任。丈夫で壊れにくく、しかし洗練されたデザインを作り続けた。そしてwiiの開発責任者に就任したころ、2002年に同じくして専務取締役に就任。任天堂のハード畑のトップとして今回の代表取締役への就任と相成った。

 岩田社長の社長就任劇と同じく、現場の人間をトップに据えることとなった今回。ハード畑のトップが竹田ならば、ソフト畑のトップと言えば・・・次回はもう一人の取締役となった宮本茂氏にスポットを当てたい。今回はこれまで。

関連項目 #142 日本ゲーム業界のパイオニア「横井軍平」
関連項目 【番外編】不遇のプログラマー「岩田聡」

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【番外編】不遇のプログラマー「岩田聡」

 2015年7月13日、衝撃のニュースが私の目に飛び込んできた。任天堂の岩田聡社長が55歳の若さで亡くなったというニュースだった。岩田社長は昨年中にも胆管腫瘍の為一時休養に入っており、復帰の際の痩せた姿には心配の声も上がっていた。そしてライフワークの一つであったニンテンドーダイレクトの終了発表も相まって、岩田社長退任説などが流れている矢先の出来事であった。
 ゲームファンにとってもかなり衝撃的なニュースになったに違いない、若いゲーム産業において第一線を走る人が亡くなるという経験はあまり多くない。横井軍平氏、飯野賢治氏、深谷正一氏以来と言っていいだろうか、経営者でありクリエイターだった岩田氏の逝去に皆ショックを隠すことはできなかった。

 そして今回のタイトルに「不遇のプログラマー」と冠したのには理由がある。あくまで私個人の見解ではあるが、岩田氏は任天堂社長よりもやりたいことがあったに違いないと見ているからだ。なぜそう思うかというと、氏の足跡がそう物語っているからだ。


1.高校時代からHAL社長まで

 北海道札幌市出身、父は長きにわたり室蘭市長を務めた岩田弘志氏。高校時代にプログラミングに目覚め、アルバイトや親の援助によりプログラム電卓のHP-65(当時約24万円)を購入する。独学でプログラミングに励んだ岩田はヒューレット・パッカード社に自作のゲームなどを送り、その完成度の高さで同社を驚かせていたという。
 その後岩田は東京工業大学に進学、その際に世界初の家庭用PCであるPETをローンを組んで購入。同時期にインベーダーゲームのブームが到来し、岩田はコンピューターゲームの道に進むことを決意する。大学在学中にHAL研究所のアルバイトとして開発に参加、大学卒業後にそのまま正社員となった。

 ファミリーコンピューターが発売された1983年当時、まだ日本にはファミコンのCPUに精通したプログラマーは少なく、岩田はその第一人者であった。ファミコンソフトの時点でゴルフゲームに必要な要素はすべてそろえていたと呼ばれるファミコンの「ゴルフ」やアーケード版以上の完成度を誇ったといわれる「バルーンファイト」のプログラミングを手掛け、業界にその名を轟かせた。特にバルーンファイトで実現した独特の浮遊感の表現や、ゴルフでのボールの挙動の滑らかさなどは当時のファミコンソフトの中では異質と言っていいほどの完成度の高さであった。

 その後もファミコンソフトの開発に加え、当時の主流PCだったMSXやコモドール向けソフトなどの開発にも従事するも、バブル景気に合わせて不動産業にも手を広げたのちのバブル崩壊による失敗と、MSX市場の消滅のダブルパンチで90年代頭にHAL研究所は一度倒産に追い込まれている。そんな折、かねてからの取引先である任天堂から救いの手が差し伸べられたのだが、その当時任天堂社長であった山内溥からある条件が言い渡される。その条件とは「岩田を社長にすること」というものであった。
 HAL研究所の再建を託された岩田、目標に掲げたのは「今後発売するソフトはすべてミリオンセラーを目指す」というものだった。そして岩田体制に移り変わり最初に発売されたのが、かの有名な「星のカービィ」である。社長兼エースプログラマーとして動き出した岩田だったが、いきなりヒット作を生み出すことに成功する。その裏ではHAL研究所の後輩である桜井政博と任天堂の宮本茂という二人の天才クリエイターが織りなした名作でもあった。

 翌年、続編として発売された「星のカービィ夢の泉物語」で売り上げ100万本越えを果たし、HAL研究所の再建を果たす。その後も任天堂参加のセカンドパーティとしてヒット作を作り続け、カービィシリーズや、大乱闘スマッシュブラザーズシリーズの開発を手掛けることになる。

 自社開発のソフトはもちろんだったが、任天堂開発のソフトにも注力を注いだ。特に「MOTHER2」でのエピソードが有名だ。開発が行き詰った中、「これを、いまある形のままで直していくなら、2年かかります。でも、イチからつくっていいなら、1年以内にやります。どちらにしますか」と発言し、実際にほぼ0の状態から1年で完成させたという逸話も残っている。
 岩田が得意としたスタイルは、予めどんなスタッフでも使用可能なツールの制作を行い、作業効率の引き上げを図るというスタイルだ。この方式は現在のゲーム開発においては主流と言っていいだろう。今ではこのツールの事を「制作エンジン」と呼び、まずこのエンジンの制作からゲーム開発は始まる。制作エンジンを流用することで新タイトルの制作効率を引き上げ、似たスタイルの別タイトルの制作も楽に行えるというものだ。
 すでに20年以上前からこのスタイルを始めていたのだから、岩田が天才プログラマーと呼ばれるのも納得がいく。
そんな岩田であったが、社長業の多忙化が進み「大乱闘スマッシュブラザーズDX」への参加を最後にプログラマーとしてゲーム開発に関わることはなくなっていった。



2.異例の大抜擢

 HAL研究所が立て直し、多数のヒット作を作り出した2000年頃、岩田はその手腕を買われ任天堂へ入社する。取締役経営企画室長に就任し、そこから2年後の2002年、42歳で山内溥より次期社長の指名を受ける。任天堂は創業家の山内家が代々社長に就任してきた歴史があったため、山内溥の長男山内克仁か娘婿の荒川実のどちらかが就任するであろうという周りの予想を大きく裏切った人事となった。そうでなくとも外部で社長を務めていたとはいえ、入社2年目の岩田が選ばれるというのは衝撃的であった。HAL研究所の社長として推薦していた過去もあり、山内溥としては当初からこの計画を立てていたのではないかと言われているが、今や知るすべはない。

 岩田が社長に就任し、内部構造は一変することになる。中興の祖として典型的な社長一任の方針決定を行っていた山内だったが、岩田は取締役会での決定を最重要とした。そもそも山内自身も社長一任方式は時代遅れと感じていたため、自らが退くことで体制を刷新することにしたといわれる。
 1983年のファミリーコンピューター以来、ゲーム業界のトップシェアを守り続けていた任天堂だったが、自らの裏切りにより起きてしまったプレイステーションの逆襲により、NINTENDO64、GAMECUBEはソニーに苦杯を舐めさせられた。より豪華に、より綺麗な画質を追い求めていたソニーに対抗するため、任天堂が取った策は「ゲーム人口の拡大」だった。
  
 2004年、第一弾として発売された「ニンテンドー DS」は大ヒットを記録する。読み書きに加え会話等、教育・知育の要素を多分に盛り込んだニンテンドーDSは歴史的な大ヒットを記録する。ゲーム機が家庭に、全年齢に遊ばれる時代を見事に作り上げたのだった。最終的にニンテンドーDSシリーズは全世界で1億3000万台を売り上げ、ゲームボーイを抜き、携帯機の歴代売上台数1位に躍り出るまでになった。加えて2006年には家庭用ゲーム機の「wii」を発売。最終的に全世界で1億台を売り上げ、PS3やXBOX360からトップシェアを奪還するに至った。そして任天堂は2009年に創業以来の最高売上高を記録、しかしここから任天堂は苦戦することになる。ニンテンドーDSの後継機となったニンテンドー3DSは好調だったものの、wiiの後継機であるwiiUの販売が苦戦。特に世界のシェアが奪えず、さらにはこの当時より普及してきたスマートフォンの拡大により2011年より赤字計上が3年間続いた。しかし2015年の計上では黒字回復し、これからというタイミングでの逝去となってしまった。

 任天堂社長として酸いも甘いも見ることとなった岩田だったが、従来の社長にはない革新的な試みを多く行った。まず代表的と言えるのが、「Nintendo Direct」(ニンテンドー ダイレクト)だろう。任天堂の自社サイトから岩田社長が新タイトルのプレゼンテーションやプロモーションを行った。クリエイターや社長自身がE3や東京ゲームショーでプレゼンを行うことはいままでもあったが、特設サイトを作り社長自ら視聴者に語りかけるというスタイルは非常に斬新であった。岩田社長のプレゼンの上手さもあいまって人気コンテンツのひとつとなった。
 そしてもう一つは「社長が訊く」シリーズだ。岩田社長自ら新作ソフトのプロデューサーやディレクターにインタビューを行うというもの。普段なかなか遊んでいるだけではわからないゲーム製作の裏側を覗き込める企画、いままで顔さえわからなかったゲームクリエイターという人種を詳らかにし、プレイヤーとゲーム会社の垣根をとっぱらうことに注力した。BtoCの距離をひたすらに近づけ、信頼を大切にしていたことがわかる。

3.最後に
 前任天堂社長山内溥に見出され、表舞台に立つことを宿命づけられた岩田だったが、「社長が訊く」を読めば読むほど、現場への憧れというものがにじみ出ていたように思う。噂によれば社長業務で多忙だった岩田は、プログラミングを行うためにわざわざ休日出勤をしていたという話まである。こよなくゲーム作りを愛し、こよなくプレイヤーを愛した無二のクリエイターだったのではないだろうか。社長ではなく一プログラマーとしてキーボードを叩き続けたかったのかもしれない。もしかしたら世界最高のゲーム会社の社長をする羽目になった、一人のマイコン野郎の不遇な人生だったのかもしれない。
今はただひたすらに、一人のクリエイターの死を悼みたい。

この拙文を岩田聡氏に捧ぐ


関連項目 #142 日本ゲーム業界のパイオニア「横井軍平」

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#157 日本水泳界最高のヒーロー「北島康介」

今年も暑い夏がやってくる、夏といえばスポーツの季節。今回は見た目は涼しげだが、その実凄まじい熱闘を繰り広げる水泳界から、日本人史上最高の成績を収めた水泳選手をご紹介したい。

 改めてこの選手を紹介するのも気が引けてしまうが、今回はその功績を振り返り、やっぱりすごいと確認しようという試み。その選手というのは「北島康介」、アテネオリンピック、北京オリンピックの2大会に於いて、100m平泳ぎと200m平泳ぎの2種目で金メダルを獲得した男。

 北島は今年33歳になるが、そのトップスイマーとしてのキャリアは非常に長い。非常に肉体を酷使する競泳は選手寿命も短く、20代で引退する選手も少なくない。北島自身もロンドン五輪終了後に一度引退を表明していたものの、やはり競技が恋しくなったのか引退を撤回している。

 そんな北島が始めて脚光を浴びたのは2000年、当時高校3年生だった北島は日本選手権の100m平泳ぎで優勝し、更にはシドニー五輪にも出場。4位の好成績を記録する。この年から2008年にかけて日本選手権を9連覇という偉業を成し遂げる。

 「チョー気持ちいい」、2004年の新語・流行語大賞にも選ばれたこの言葉、みなさんも記憶に新しいことだろう。アテネオリンピックの100m平泳ぎで金メダルを取った際の言葉だ。当時の世界記録をマークするなど、大会前から北島への期待は高まっていた中で見事に結果を残した。せめぎ合うプレッシャーからの開放など諸々あったに違いないが、最終的に16個もの金メダルを獲得した日本勢だったが、その中でもとりわけ印象的なものとなった。

 そして日本の期待を一身に背負った北京オリンピックでのパフォーマンスはまさに圧巻だった。100m平泳ぎでは当時の世界記録、人類史上初の58秒台となる58秒91を記録し優勝、200mも優勝し、大会連覇を果たす。平泳ぎ2種目を連覇したのは世界初であった。

しかし北京オリンピック以降、1年近く競技大会から離れていたものの、パンパシフィック水泳や世界選手権でも上位をキープ。2012年のジャパンオープンでも日本新記録をマークし、日本競泳界初のオリンピック同一2種目3大会連続出場を果たす。3連覇の期待が掛かったロンドンオリンピックだったが、100mで5位、200mで4位とメダルに届かず、連覇はここで途切れることになった。しかし400mメドレーリレーでは改心の泳ぎを見せ、日本の銀メダル獲得に貢献した。その後も大会へ出場をつづけていたものの、2014年には主要大会で無冠におわり、休養していた2009年を除き1999年以来の国内無冠に終わった。
しかし今なお現役にこだわり、つい先日ロスの大会で優勝するなど、第一線で活躍しながら世界中を飛び回っている。

 まさに近年の日本におけるオリンピックの象徴的な存在だった。日本水泳界を世界の舞台にさらに押しあげた立役者、来年のリオでは彼の背中を見た選手たちが活躍するに違いない。

テーマ : 水泳
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#156 今こそ振り返りたい「ファイアーエムブレム聖戦の系譜という異端作」

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 6月25日に任天堂より発売されたニンテンドー3DS専用ソフト「ファイアーエムブレムif」がちょくちょく話題と物議を醸しだしている。やれアニメチックすぎないか?といったものや、結婚システム、難易度云々もろもろあるが、ファイアーエムブレム(以下FE)ってそういうものだろうということを振り返りたい。

 今からさかのぼること19年前の1996年、スーパーファミコンにて発売された「ファイアーエムブレム 聖戦の系譜」というゲームがある。このゲームはFEシリーズの4作目、マルスをめぐる「暗黒竜と光の剣」と「紋章の謎」の一連のストーリ-が完結し、心機一転新たなストーリーとして生まれたタイトルである。従来のシステムから大きく変更が加えられた作品でもあり、癖が強いシステムと言えば聞こえは良いかもしれないが、単純に遊びにくさが引っ掛かるタイトルであった。私自身FEシリーズと出会ったのは2002年に発売された「封印の剣」が初めてだったため、いわばファンとしては後発組。SFCからGBAに舞台を移した時にFEシリーズに大きな変化があったことを知らない世代であった。
 
 ちょうどGBA2作目「烈火の剣」が出た頃だっただろうか、2作目も遊び終え意気揚々と過去作に手を出そうというのはファンの常、私が手に取ったのは悪名高き「トラキア776」を避け(そもそもこの時wiiのVC等過去作を遊びやすい環境はなく、SFCソフト現品を手に入れる必要があったが、SFC版のトラキア776はレアソフトだったため手に入れる事自体難しかった)、その次に新しかった「聖戦の系譜」だった。

 システムとしてそこまで変わらないだろうと考えていた私の想像は一瞬にして打ち砕かれた。なぜ素早さが相手より高いのに2回攻撃しない?雑魚敵が異様にタフで強い、1面がめちゃくちゃ長い(後半では1面がGBAシリーズの5面分に相当)、キャラ同士が結婚!?強烈に後味が悪い前編などなど・・・枚挙に暇がないとはまさにこのこと、では聖戦より前の作品の紋章の謎と言えば、「ああ知ってるFEだ。」という感想が漏れ出る始末。転換期で合ったため、あらゆる冒険を試みた聖戦の系譜だったわけだが、残念なことにシリーズの中では浮いてしまうことになったのだ。

 だからと言ってつまらないかと言えばそうではない、GBA以降のFEはDSに舞台を移すまである問題があった。それは自軍ユニットが強すぎるという問題だ。ソードマスターやアサシン等、速さと特殊能力を併せ持ったキャラやドラゴンマスターなど、パラメーターが鬼のように上がり、単騎でステージを制圧可能にしてしまうような強力なユニットがごろごろしていたため、戦略も何もあったものではない。

 聖戦の系譜では確かに強いユニットはいるものの、そのキャラ単騎ではまず命を落とす、後半になれば敵の数も多く、相手はかなりタフ、武器相性により命中が20%前後するため、確実な回避は期待できない。追撃もユニット固有の能力の為、追撃ができないキャラでは火力が確保できず、あっという間に取り囲まれるなどなど、戦闘面ではかなりシビアな作りになっている。そんな中でボス戦などで各キャラ固有のスキルが発動すると非常に胸がすく思いだ。特に相手に5回攻撃を叩き込む流星剣はこのゲームで一番楽しいスキルだろう。

さらには支援システムにさらに拍車をかけた恋人システム。特定のキャラを隣接させ続けると、いずれ恋人となり、後半のストーリーでその二人の子供が味方ユニットとして登場するというものだ。両親のステータスにより子供のステータスも大きく変わるため、親選びは重要ではあるものの・・・イケメン美女揃いのFEシリーズでこのシステム導入は当時の同人作家に大きく影響を与えたとも言われる。そんな中で美人とアーマーナイトのアーダン(本作のブサイク枠)をくっつける歪んだ楽しみ方をしたりと、それも人それぞれだ。

シナリオについてだが、この作品は他のシリーズと比べてかなり悲劇的な内容が多い。戦争の悲惨さをテーマにしたとのことなので、それも納得ではあるが、死=終わりという色がほかのゲームよりも数段強いFEシリーズだからこその説得力のある死であると言えよう。

一つ言わせてもらえば、FEって昔からこんなもんだったよってこと。Ifは遊んでないのでわからないが、駄作でないことを祈るばかり。良ければ古い作品も遊んでください。
                                                                         以上
 

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