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#176 ミスターストイック「榎本喜八」

 アメリカの野球殿堂に続き、日本の野球殿堂の表彰者も1月18日に発表された。
日本の野球殿堂はプレーヤー表彰、エキスパート表彰、特別表彰の3つに分類され、それぞれ選考委員の75%以上の得票を集めれば殿堂入りとなる。
そして今回は、プレーヤー表彰にて、通算224勝29年もの現役を務め、現在ソフトバンクホークスの監督を務める工藤公康氏。90年代の巨人のエースとして君臨した、通算180勝、11試合連続完投勝利の日本記録を持つ斉藤雅樹氏の両名が選出。
 特別表彰では法大野球部を黄金時代に導き、そのまま社会人野球に進み、監督としてソウル、バルセロナの2度のオリンピックで日本をメダル獲得に導いた山中正竹氏と戦後のプロ野球復興に多大な貢献を果たした松本 瀧蔵氏の両名が野球殿堂入りを果たした。

そして今回エキスパート表彰で野球殿堂入りを果たした男こそ、プロ野球史上最もエースにおそれられた天才バッター、榎本喜八である。

 古くは張本勲、新井宏昌、イチロー、青木宣親らが呼ばれた「安打製造機」という異名、その元祖がこの榎本喜八だ。1000本安打、2000本安打の最年少記録を持ち、今なおパリーグ記録や日本記録なども多く保持する大打者である。

タイトルにあるミスターストイックという言葉、これは私が勝手につけた異名にすぎないが、彼を表現する言葉としてストイックという言葉を外すことはできない。打撃を技から術へ、そして芸へ昇華し、果ては道にまで磨き上げようとした男、それが榎本喜八である。

 幼少期の彼は父を戦争に取られ、非常に貧しい暮らしを強いられていた。雨漏りがひどく、雨の日は寝ていることさえままならないような家で過ごした榎本、しかし職業野球を観戦に行ったことで、家族を暖かい家にすまわせてやれると思い、榎本はプロ野球選手になることを夢見るようになる。
 早稲田実業高校に進学した榎本、猛練習に耐え、2年時には主軸を任せられるようになる。しかし当時の榎本はプレッシャーに弱く、チャンスで打てないことが多かった。そのため甲子園ではあまり成績を残せず、荒いバッティングと評され、プロ球団から声が掛からなかった。
 この時榎本が縋ったのは早稲田実業の先輩であり、毎日オリオンズ(現在のロッテ)でプレーすることが決まっていた荒川博にオリオンズへの入団の口利きを頼みこむも、荒川は「これから3年間、毎日朝5時に起きて登校する前に500本素振りすれば、世話してやる」と軽くあしらったが、榎本は口約束を真に受け、数年間素振りを敢行。3年生の秋に荒川の自宅を訪れ「毎日振りました。プロに入れて下さい」と土下座して懇願し、荒川も断りきれず、入団テストの運びとなった。

入団テスト時に当時の監督である別当薫や、正一塁手であった西本幸雄はそのバッティングに驚きを隠せなかったという。「高校を出たばかりにして、既に何も手を加える必要のないバッティングフォームを持っている。」とまで言わしめ、この時からすでにバッティングの天才としての異彩を放っていたといってもいいだろう。
川上哲治2世の呼び声もあり、背番号3を与えられた榎本の悲願のプロ野球生活が始まることになる。


 1955年のシーズン開幕戦、毎日オリオンズの開幕スタメンには、なんと5番1塁手に榎本喜八の名前があった。なんと高卒新人にしてクリーンナップを任されたのだ。その後活躍をつづけ、6月には3番に座るようになると、オールスターにもファン投票で選出し初出場を果たす。最終出来には. 298、16本塁打、67打点、最多四球、最多死球、出塁率.414を記録し見事新人王を獲得。
 
当時の新人記録を総ナメにし、今なおシーズン出場試合数139試合、打席数592、打数490、84得点、149安打、24二塁打、7三塁打、87四球、10敬遠、5犠飛、出塁率.414は高卒新人最高記録として名前が残っている。
新人の頃から「安打製造機」と呼ばれるようになり、稀代のヒットメーカーのデビュー年として強烈なインパクトを残した。しかしそんな榎本も3年目から5年目にかけてメンタル面の弱さが成績に影響を与えていた。クリーンナップを打つ機会が多かった榎本だが、「自分がチャンスで打てないと負ける。」「3割打てないと給料が下がり家族に迷惑をかけてしまう。」と過去のトラウマから精神的に悪循環に陥り成績を落とした。


 1959年、チームメイトとなった先輩の荒川より、合気道を紹介される。合気道の所作と心構えを元にバッティングフォームと精神面の強化を図り、これが見事に実を結ぶことになる。1960年には3番に座り、.344で首位打者を獲得。大毎ミサイル打線と呼ばれた強力打線の一翼を担い、見事リーグ優勝を果たした。1961年には9月に通算1000本安打に到達。なんと24歳9ヶ月という超スピード達成となった。
 1966年には.351という高打率で2度目の主打者を獲得。1968年には通算2000本安打を31歳7ヶ月で達成し史上最年少記録となっている。しかしこの頃から怪我と年齢による衰えとの戦いと、濃人監督から交代した大沢監督の起用法に納得できず、成績を落としていく。71年オフには西鉄ライオンズへトレードされたものの翌72年のシーズン後に引退を表明。
 
 キャリア晩年にチームリーダーになった時期には周囲から理解者が一気に離れてしまった時期と重なる。球団への不満、監督の方針への不満、自身の怪我からくる衰え等、ただでさえ繊細だった榎本は精神的に追い込まれていった。練習中に大声で奇声を発したかとおもえば、7時間も瞑想にふけったり、ベンチ裏などでバットやビンを叩きつけ壊したり、果ては猟銃を持って立てこもり事件を起こしたりと周りを恐怖させることもしばしばあった。西鉄に移籍した時には、獲得を進言した稲尾監督も声を掛けられないほど追いつめられてしまっていたという。この頃には自宅で素振りをしていると、ヒットを打ちたいと思うあまり自然と涙が流れていたという。理想の自分とかけ離れていく衰えと、年俸が下がっていく過去の極貧からくるトラウマにより、次第に追い詰められ行ったという。
 
 榎本自身は引退後打撃コーチになることを切望していたが、現役時代、若手選手にバッティングを師事されるも、榎本の持つ「臍下丹田に己を映す」「五体を結ぶ」という感覚や言葉は他の選手には伝わらないことを嘆いていた。もはや榎本の打撃理論は剣術のように精神面が技術面を追い越してしまっており、伝える事が困難になってしまっていた事や、不調時に起こした奇行などにより周囲に敬遠されがちになる。引退後もコーチ職に就くことを考え、毎日自宅と毎日オリオンズの本拠地であった東京スタヂアム間の約42キロを毎日走り体力づくりに努めていたが、ついには2000本安打達成者で唯一引退後コーチ・監督職を務めることなく球界を去って行った。


とにかく芯で球をとらえること一点に情熱を注ぎ続け、ポテンヒットやボテボテのゴロが抜けてもヒットと認めず、逆に芯を捕らえた打球はアウトになっても機嫌がよかった。そんな榎本が神に触れた瞬間があったという。

 1963年の7月7日から8月1日にかけての間、榎本は神の域に達したと語った。自分の身体の動きが寸分の狂いも無く認識でき、次はどのコースにどんな球が来るのか手に取るように分かるという奇妙な感覚を体験。この間の打球はすべて真で捉えたライナー性の当たりだったといい、実際にこの期間の打率は19試合で.411(73打数30安打)とハイアベレージを残しており、周りの動きがスローに感じたという。まさにガンダムで言うところのニュータイプのような感覚に突入していた。しかし8月1日の試合で走塁時に負傷し、7日後の出場時にはこの感覚が終わってしまっていたという。
 榎本はその後の野球人生をもう一度この感覚を味わうために打撃を追い求めていったが、結果として2度とこの感覚は戻ることなく、その事実が榎本自身を苦しめてしまった。

 榎本の評価は、とくに同時代を戦ったパリーグの名選手の間で非常に高い。当時東映フライヤーズで活躍した張本勲、南海ホークスの正捕手を務めていた野村克也、西鉄ライオンズのエースとして君臨していた稲尾和久らの榎本評を聞くだけでも、榎本という選手がどれだけすぐれたバッターであり、高い集中力を持って野球に臨んでいたのかがわかる。
 張本からは、7度の首位打者を獲得した張本をもってしても、自分が真っ向勝負で負けたのは榎本だけと語り、野村をしてささやき戦術が通用しなかったのは長嶋、王、そして榎本だけだったと語る。稲尾に至っては、榎本を抑えるためだけにフォークボールを練習し、榎本以外には一切フォークボールを使わなかったと語る。
 エピソードを上げれば枚挙に暇がないが、何より好球必打を心がけており、選球眼に優れていた。最多四球を4度獲得、三振もとにかく少ない打者だった。1964年には641打席に立ち、三振はわずか19、この年の出塁率から打率を引いたISOD(四死球による出塁率)は.106にも及び、三振をしないうえに球を見ることができる、ピッチャーとしては最も相手にしたくない選手として君臨していたことは想像に難くない。

寂しく球界から、そしてこの世から去った稀代の天才打者。今の時代に再度スポットライトが当たったのは、彼の残した足跡の大きさゆえだろうか。今はただその栄誉を称えたい。

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テーマ : プロ野球
ジャンル : スポーツ

#175 正真正銘の5ツールプレイヤー「ケン・グリフィー・Jr.」

 2016年1月6日、本年度のアメリカ野球殿堂入り選考が行われた。今回は新たに2名のプレイヤーが有効得票率の75%を超え、殿堂入りとなった。

 一人はマイク・ピアッツァ捕手、打撃だけなら歴代NO1捕手と言われた超攻撃型の捕手。捕手の通算本塁打記録も保持しているが、ドジャース入団まで1塁手を務めていたこともあり拙守、弱肩とよばれていた。
日本人にとっては、ドジャースに移籍した野茂英雄の女房役として知名度が高い選手だ。殿堂入り捕手としては異例のゴールドグラブ受賞歴無しという肩書と、殿堂入り選手史上最も低いドラフト順位(全体1389位)の選手となった。


そしてもう一人は今回の主役であるケン・グリフィー・Jrだ。

 通算2781安打、630本塁打は歴代6位、4度の本塁打王、7度のシルバースラッガー賞、中堅手として10年連続10度のゴールドグラブ賞を受賞、全盛期にはシーズン50本塁打&20盗塁を記録した正真正銘の5ツールプレイヤーである。こちらはマイク・ピアッツァとは違い、全米ドラフト1位でシアトル・マリナーズに入団しており、史上最高の得票率である99.3%の記者得票を得て殿堂入りが決まった。全米ドラフト1位の選手の殿堂入りも史上初めてのこととなった。この受賞を受け、シアトル・マリナーズはグリフィーが付けた背番号24を永久欠番にすることを発表。マリナーズにおける最初の永久欠番選手となった。

 1999年当時のMLBオールセンチュリー・チーム(アメリカ版歴代オールスターチーム)では現役選手として唯一選出され、同じく5ツールプレイヤーとして名を馳せたウィリー・メイズに次ぐオールラウンダーという高い評価を得ていた。90年代最高の野手という評価を通算本塁打記録を更新したバリー・ボンズと二分する存在として、90年代のメジャーリーグにおいて最高の人気を誇ったプレイヤーである。

 19歳の若さでメジャーデビューを果たしたグリフィーJr、早速頭角を現し一年目から.264 16本塁打 61打点を記録し、新人王投票では3位に食い込む活躍を見せる。
翌1990年には自身初のオールスターゲームへの出場やゴールドグラブ賞の受賞など順調なキャリアアップを果たしたが、ここでメジャー史上初の親子出場を果たしている。  
 父であるケングリフィーシニアもメジャーリーガーで、シンシナティ・レッズで活躍した経歴をもつ。90年に成績不振からレッズを解雇され、息子の所属するシアトル・マリナーズが契約、8月31日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で2番レフトシニア、3番センタージュニアという打線が実現。9月14日には親子2者連続ホームランも飛び出している。  
シニアが19歳の頃にジュニアが生まれたことが、この親子スタメン実現の最大の切っ掛けだろう。親子でメジャーリーガーになった選手は数多いが、同一チームでスタメンに名を連ねたのはグリフィー親子のみである。

 ここからグリフィーJrは加速的に進化を遂げていく。91年には自身初の100打点とシルバースラッガー賞を受賞。92年には2年連続で3割20本100打点を記録し安定した成績を残す。そして93年には自身初の40本塁打以上となる45本塁打をマーク、これは当時のマリナーズの球団記録となった。
 惜しくも一本差で本塁打王を逃すものの、ここからのグリフィーJrの活躍は異次元の物だった。93年からマリナーズを離れる99年まで怪我で欠場が多かった95年以外すべてで40本塁打以上を記録。4度の本塁打王と1度の打点王、2年連続の50本塁打以上を記録。まさにシアトルのヒーローとなった。
 史上最年少で400本塁打に到達し、当時ハンク・アーロンの持っていた通算本塁打記録755本の更新の期待も高まっていたが、00年から移籍したシンシナティ・レッズでは苦しい時代を過ごすことになる。初年度こそ40本塁打を放ったものの、長期にわたる怪我に苦しみ、思うように試合に出場できない日々が続いた。レッズの8年間で放った本塁打は210本、マリナーズ時代の11年間で放った398本に比べると、選手としても油の乗り切っていた30歳からのキャリアということを踏まえても寂しい数字となってしまった。怪我の大半は足の負傷だったが、その原因はかつてマリナーズが本拠地としていたキングドームの人工芝による負担であると言われている。

 2008年途中でシカゴホワイトソックスに移籍、そのオフに10年ぶりにマリナーズへの移籍を発表する。グリフィーJrのマリナーズへの復帰に喜んだのはシアトル市民はもちろんの事、当時マリナーズのスター選手となっていたイチローもその一人である。メジャー移籍以前のオリックス時代より、グリフィーJrへの憧れを公言し続けていたイチロー。この影響もあったのか定かではないが、2009年は最終的に.352の高打率を残すシーズンとなった。
 グリフィーJr自身はDHでの出場がほとんどだったものの、低打率ながら19本塁打をはなち、長打力を見せた。しかし翌2010年シーズンは成績が低迷、試合中に居眠りをしていた等、チーム成績不振の一因として揶揄される姿が目立った。同年に現役引退を発表、22年に渡るキャリアを終えたが、かつてのスーパースターにとって少しさびしい最後となった。

 グリフィーJrが高く評価されている点は、メジャー史上屈指の5ツールプレイヤーだった点はもちろんことながら、「ステロイド時代」と形容される1990年代中盤から2000年代中盤までを全盛期としながらも、その中でもグリフィーJrは一切のステロイド使用疑惑が無く、ステロイド使用者を暴露したホセ・カンセコをして「彼のようなクリーンな男はいない」、「彼は常にクリーンだった」と評されるほどであった。バリー・ボンズやサミー・ソーサ、マーク・マグワイア等、この時代に氾濫した本塁打記録はほぼステロイドによるものとされている中、純粋に630本塁打を放ち、ステロイドプレイヤーに決して引けのとらないパフォーマンスを見せたグリフィーJrは半ば神格化されていると言っていいだろう。

 そのスピード、パワーはまさに見るものを魅了した。何より語られているのはそのバッティングフォームの美しさだろう。バットを立て、左ひじを後ろに引いた位置から、アッパースイング気味に下からボールをひっぱたく。真で捉えたボールは軽々スタンドを超える。綺麗な弧を描くバットの軌道は唯一無二の物だろう。

 まさに万人が認めるプレイヤーの殿堂入り、最大級の賛辞を贈りたい。
 おめでとうグリフィー、ピアッツァ

テーマ : MLB
ジャンル : スポーツ

#174 自分の夢に真摯に「アルテ」

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 今回はコミックゼノンに連載中の大久保圭著の漫画、「アルテ」を紹介したい。
一つ今回、この作品については作品の完成度と共にもう一つ期待しているものがある。
それは著者自身の成長というポイントである。というのもこの漫画、現在4巻まで出ているのだが、回を重ねることでどんどん面白さが増していっていると感じたからだ。
 女性作家ということと、16世紀等古い時代を舞台にしていることから、頭の片隅にどうしても「エマ」「乙嫁語り」の森薫氏とどこか重ねてしまう部分があるのだろうか。おそらく現時点でのNO.1漫画家と個人的に評価させて頂いている森薫氏との比較というのは些か厳しいものがあるかもしれないが、それだけ魅力的な作品を作り得る可能性を感じている。

あらすじ
16世紀初頭・フィレンツェ。芸術など文化活動が花開いたルネサンス発祥の地。
そんな活気あふれる華やかなる時代に、貴族家生まれのアルテが画家工房への弟子入りを志願する。女性がひとりで生きて行くことに理解のなかった時代、様々な困難がアルテを待ち受ける。                           Amazonより


 あらすじにもある通りではあるが、主人公アルテが画家を目指し奮闘する。当時の貴族が画家を目指すという、周りからすればあり得ない夢を追いかける姿を描いた作品だ。
 当初はやや少女漫画的というか、気難しい天才画家の元に師事して師に恋心も抱くという下りはうーんという感じはあったものの、アルテが未熟な故の過ち、無知であることの良さをいうものが見えてきてから面白さが増してきたように思う。
 4巻を数えてようやく登場キャラも増え、ストーリーも大きく展開が変わってきた。弟子から一人の画家としての旅立ちと成長が描かれるこれからのストーリーに注目していきたい。

テーマ : 漫画
ジャンル : アニメ・コミック

プロフィール

ppsnuwa

Author:ppsnuwa
趣味に生きたい社会人
野球とF1とゲームと漫画をこよなく愛す
ブログも主にこれらを扱います
10000人来訪ありがとうございます

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