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#180 30周年、あらためて振り返ろう「ドラゴンクエストⅠ」

akoko1.jpg


今回は1986年にエニックスより発売されたファミリーコンピューター用ソフト「ドラゴンクエスト」を取り上げたい。
このゲームは家庭用ゲーム機初のオリジナルRPGということで注目を集め、今日まで続くドラゴンクエストシリーズの源流かつ、家庭用RPGの金字塔として多くのファンに愛される作品となった。
2016年1月に発売されたスピンオフタイトルの「ドラゴンクエストビルダーズ アレフガルドを復活せよ」や2003年からゲームセンターなどに置かれた「剣神ドラゴンクエスト」は、このドラゴンクエストⅠ(以下DQ1)の舞台を元に作られている。

この作品はマイナーなPCゲームの1ジャンルであったRPGというジャンルを日本中に広めた立役者となったわけだが、このDQ1は海外のRPGゲームの良いとこどりで生まれたゲームだった。町の移動やフィールド移動などの部分は「ウルティマ」というゲームを、敵との戦闘などは「ウィザードリィ」の要素を取り入れたハイブリッド型のゲームとなった

参考画像

ultima1.gif
ウルティマ1
http://fencerqueeen.web.fc2.com/ultima_history.htm

20131201201852.jpg

DQ1
http://d.hatena.ne.jp/morisawajun/20131202/1385946553

wizardry1.gif
ウィザードリィ1
http://oldgames.ganje.de/pictures/wizardry_1__proving_grounds_of_the_mad_overlord_2.gif
DQ1戦闘

DQ1
http://d.hatena.ne.jp/morisawajun/20131202/1385946553


ご覧いただければ、「ああ確かに」という感想が出てくるかと思う。ウルティマは1980年、ウィザードリィは1981年に発売されたので、DQ1よりかなり先に発売されたことになる。

 実はこのドラクエの出自には、大きく「週刊少年ジャンプ」が関わっている。シナリオ・ゲームデザインを務めた堀井雄二は当時ジャンプでファミコン関連の記事を執筆していたし、キャラデザインの鳥山明は言わずもがなドラゴンボールの連載中。ちなみにDQのあのDRAGONQUESTのロゴは桃太郎伝説・電鉄シリーズのキャラデザインかつ貧乏神のモデルとなった榎本一夫氏のデザインである。(当時榎本氏もジャンプの読者コーナーを担当していた。)
 開発がエニックスになったのは、ジャンプに掲載する記事の取材で堀井がエニックス主催のゲームクリエイターコンテストに作品を出展し入賞したことがきっかけ。そこからエニックスと関わりができ、DQの開発を行うことになった。


 そして肝心のゲーム内容についてだ。

本作は後の国産RPGの礎を築いたと言っていいだろう。多くのタイトルがシステムを模倣し、その中で個性を生み出し、RPGの枝葉を広げていった。

ストーリー
本作の舞台であるアレフガルドは、かつて大魔王の手によって闇に閉ざされていたが、大魔王は伝説の勇者ロトによって倒され、魔物たちも光の玉によって封印された。それ以来アレフガルドは平和が続いていた。
月日は流れ、ラダトームの王であるラルス16世がアレフガルドを治める時代に、アレフガルドに再び邪悪な者が現れた。その名は竜王。竜王はラダトームから光の玉とローラ姫を奪い、アレフガルドは再び魔物の徘徊する世界となった。竜王に戦いを挑んでいった者はいたが、生きて帰ってきた者は一人もいなかった。そして、ローラ姫もどこかに監禁された。
そんな中、ある予言者が、勇者ロトの血を引く者が竜王を滅ぼすであろうと予言した。そして予言どおり、ロトの血を引く勇者が現れた。

Wikipediaより

・ストーリーや仕様について

 プレイヤーはロトの血を引く勇者である主人公を操作することになる。特に黎明期のRPG作品ということもあり、物語の導入部には非常に気を使っていた事がうかがえる。
まず王様との会話から始まり、宝箱を空け、その後道具を使って扉開けるところまでを最初にプレイさせることで、「RPGにはこういったアクションがある」ということをプレイヤーに学習させるところから始まる。DQが社会現象とまで呼ばれたDQⅢにおいては、導入部でここまで強制的なアクションは存在しないことを見ても、最初のDQ1にはかなり気を使っていたことがうかがえる。
戦闘に敗北してもゲームオーバーにならず、王様の前から再スタートできるのも初心者向けの優しい仕様だったと言える。

DQ1は実は非常に自由度が高いゲームである。ラスボスを倒すという最終目標のために3つアイテムを集める必要があるが、入手の順番が決まっているわけではないため、自由な順番で攻略ができる。さらには固定イベントも多くないうえ、船等もなくすべてのフィールドがつながっているため、初めて外にでた時点でラストダンジョン以外はどこへでも行くことができるようになっている。(もちろんラダトームから遠くに行けばいくほど敵も強くなるため、低レベルで遠くに行くことは自殺行為に等しい。いきなりドムドーラ方面に足を延ばして影の騎士に殴り殺された人も少なくないだろう。)
しかし後述させてもらうが、鍵が必要になる場面が多いため、まずは鍵を売っているリムルダールを目指すところがスタートラインだ。

 もう一つ特異な点で言えば、王女を助けるためにラスボスを倒すわけではないということだ。確かに王女はさらわれてはいるものの、どこかの洞窟で監禁されており、物語の途中で助けることができる。もちろんこれも強制ではなく、助けずクリアすることも可能。 
DQ1当時はアクションゲーム全盛、マリオや魔界村等、姫を助け出すために冒険に出る作品が多かった中では実に少しひねられたストーリーであった。

そして最大のインパクトはシリーズ唯一のバッドエンドが用意されているところだろう。
ラスボスとの戦闘前に
「もし わしの みかたになれば せかいの はんぶんを ◯◯◯◯(プレイヤー名)に やろう。」
「どうじゃ? わしの みかたに なるか?(はい/いいえ)」
と問いかけられる。ここでもし「はい」を選んでしまうと、レベル1所持金0の復活の呪文を教えられ、そのまま画面は暗転、赤いメッセージ欄が残り電源を切る以外のアクションを受け付けなくなるというもの。リメイク版では夢オチのような形でリムルダールの宿屋に戻される。
 ちなみに勇者がこの後「はい」と答えてしまった後の闇の世界がDQBの舞台である。 


・戦闘について
戦闘は基本的に1対1のターン性、男と男のタイマン勝負。反面ラリホーなど動きを止める状態異常が猛威を振るった。FC版では敵が使用するラリホーはなんと必中、ラリホーを使用してくる「メイジキメラ」や「まどうし」は悪魔のような存在であった。しかしながら逆にこちらのラリホーも全キャラ効く仕様になっており、ラスボスのりゅうおうやメタルスライムにも低確率でラリホーが効くようになっている。ちなみに敵へのラリホーからの自然回復に関しても条件が一切設定されていないので、運が良ければ永久に眠らせることができる。
FC版のDQ1では敵ウィンドウの背景に専用グラフィックが用意されていたが、DQ2~DQ4までの間は真っ黒の背景になった。これは敵の出現数の増加と、画面が完全に戦闘時のものに切り替わる仕様になったこと、容量を抑えるという3つの目的からなされた。もしDQ1も背景が真っ黒だったら、DQ1屈指の強敵である影の騎士が登場することはなかっただろう。(実際ダンジョン内では背景が黒に代わるため、真っ黒なデザインの影の騎士は室内では登場しない。)


・道具など
 たいまつやレミーラなど、ダンジョンを明るく照らすアイテムがあったのはシリーズの中でもDQ1だけである。RPGの従来の遊び方を考えればこの要素は非常に意味のあるものではあるものの、TVゲームに梱包した時にただただ無駄に難易度を上げるだけの存在であるということに気づき、2からは採用されなくなった。
以降のシリーズでも全く登場の機会を失ったレミーラだったが、トルネコの冒険でレミーラの巻物として登場、非常に使い勝手の良いアイテムでプレイヤーから重宝された。
 
さらにはDQ1では鍵はリムルダールにて購入する消耗品だった。持てる数も6つまでと制限があり、使用頻度も高いため常にストックをキープしておく必要のあるアイテムだった。
DQ1の時点では主人公が一度に持てるアイテムの数も限られており、常にアイテム数を気にかけないといけない状況だった上に、「すてる」コマンドが当時は存在せず、使用してスペースを空けるか、道具屋で売却しない限りアイテム欄を空ける方法が存在しなかった。

 FC版では盾や武器を装備すると、主人公のグラフィックにささやかながら反映された。この仕様に関してはDQ2~DQ7の間実装されることはなく、DQ8で復活するまで足かけ18年要したことになる。


・開発の苦労
 当時はデータ容量との戦いだった、今にしてFC版の総容量はなんとたったの64KB、2000年代の折り畳みなどまだない頃の携帯電話の壁紙1枚程度の容量しかなかった。DQ名物の色違いモンスターというのは、もともと容量を少しでも削ったうえで多くの敵を登場させる苦肉の策だった。
さらに工夫されたのは文字の部分、なんとDQ1にはカタカナは50音すべての文字のデータは入っていない。限られた文字の中から呪文や町の名前が付けられていった。
さらには有名な「カニ歩き」だが、これは全登場キャラは正面の絵しか存在していないため、横に移動するときもこちらを向いたままなのを表現した言葉だが、これも後ろ向きや横向きの画像パターンを削除することで容量を抑えたことに由来する。

 低容量に苦しんだにも関わらず、ぱふぱふや「ゆうべはお楽しみでしたね」というささやかなお楽しみ要素は何としても盛り込んでいた堀井雄二のこだわりはすさまじいものがある。以前存在していた堀井自身が運営するHPの中にもなんと18禁のページを作っていたりと、堀井のさりげないセクシュアルな表現への並々ならぬこだわりが感じられる。



 今年発売30周年を迎え、盛り上がりを見せるDQシリーズ。その元祖である本作に触れてみてはいかがだろうか。懐かしさはもちろんのこと、今なお色あせないものを持っていると私は思う。
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テーマ : ドラゴンクエスト
ジャンル : ゲーム

#179 1曲を考えるその1「東京事変:スーパースター」


 音楽についてあれこれ専門的なことを言えるような経験を持ってないということで、音楽に関する記事を上げる事を避けていたのだが、今回一つ思い立って「1曲を考える」というテーマの元、新しい試みをしてみたいと思う。
 私の好きな曲にスポットを当て、なぜ好きで、何が良いと思っているかというところを深く掘り下げたいと思う。
 今回は東京事変の「スーパースター」をピックアップ、なぜかと言えばこの曲を聴いていて今回のこの試みを思いついたからに他ならない。

JASRACとのせめぎ合いになるため、比較的歌詞の引用は抑え気味にお送りできれば幸いである。

この曲は2006年発売の東京事変2枚目のアルバム「大人(アダルト)」の4曲目に収録されている曲だ。シングル発売されていないアルバムの中のカップリング曲ではあるが、同じく10曲目に収録されている「透明人間」と並び、東京事変の楽曲の中で私が好きな2トップの曲だ。

最初聞いたときは、「ほんとに曲名合ってる?」というのが感想だ。華々しいイメージを持つタイトルと比べ、曲調は明るいものではなかったからだ。
たとえばロックバンドが同じ曲名で歌を書くなら「自分はスターだ」と歌うだろうし、ロキノンやオルダナティブロックが歌を書くなら「こんなスターがいた」とか「スターになりたい人」を歌うだろうが、この曲に至っては「スターと私」を歌っていて新鮮だった。
自分の弱さとスターの強さの隔たりに卑屈になる姿、歌詞の「もしも逢えたとして喜べないよ」が的確に言い表しているが、あまりに自分との差を感じる表現を行っている。
歌詞が進むとスターの姿を見て己も奮い立つ姿と、1番の喜べないからの対比として「誇れるように」という言葉で締めている。何かと戦い続けるスーパースターの姿に力を貰った人の歌なのだ。

この曲中にでてくるスーパースターのモデルは実はイチローだ、この歌が前述した「自分はスター」であったり「スターになりたい人」という歌にならないのは、モデルがスポーツ選手だったからに他ならない。舞台は違えどストイックな生き方と結果を残し続ける姿勢にあこがれた椎名林檎本人の気持ちのだろうか。イチロー本人もタイトルを見たときと聞いた後では曲への印象はまったく変わったと語ったが、ちょっと変わったイチローの考えるスター像を見抜いていたのはさすがと言わざるを得ない。


椎名林檎の書く曲は叙情的なものも多い、こうやって一度歌詞を広げて考えてみるのも面白いかもしれない。

テーマ : 音楽
ジャンル : 音楽

#178 甦れ山陰のジャイアン「白根尚貴」

2011年夏の甲子園、この大会で圧倒的な打撃力を見せ見事優勝を果たした日大三高。その時の優勝メンバーである髙山俊が2015年ドラフトで1位指名を受けたこともあり、少し懐かしい気持ちになった人も少なくないだろう。エース吉永の好投で守りにおいても隙のなかった日大三高を、この年もっとも苦しめたチームは島根代表開星高校だった。
試合結果は11対8、やはり打ち合いになったこの試合だったが、この時開星高校のエースで4番を務めていた男こそ白根尚貴。100キロを超す体重、185cmの高身長、捕手が小柄だったことのギャップも手伝い、その風貌から「山陰のジャイアン」と呼ばれた男だ。

その見た目に違わぬ長打力と、MAX149kmを記録した強肩でチームを引っ張った彼はその年のドラフトでソフトバンクホークスに4位指名され、晴れてプロ入りが決まった。
しかし高校時代多くの試合を投げていた結果、新人合同自主トレの時点で内側側副靭帯の損傷と骨棘が見つかり、いきなり右ひじ内側副側靭帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受けることになる。手術後のリハビリなどを経て、丁度一年後の2013年の春季キャンプから実戦復帰を果たすことになる。高校時100kgあった体重がリハビリ明けの頃には70kg台まで落ちていた事もあり、周囲からその激ヤセぶりには心配の声も上がっていたが、練習に入るにつれ筋肉量の増加も手伝ってか現在は90kgまで戻すことに成功した。

病み上がりの白根の主戦場は3軍が主で、そこそこの成績を残すも2軍では打てないという時期が2年続いたが、ここで戦力外通告の後、育成契約での再契約を結ぶことになる。
2015年シーズンは育成選手ながらも、一時期ウエスタンリーグの首位打者に躍り出るなど活躍、フレッシュオールスターにも選出されたものの、支配下登録の打診はなかった。最終的に二軍で.274 3本塁打の成績を残すも、ソフトバンクは来年も育成契約を継続という方針だった。

しかしこの時、育成選手がどれだけ良い成績を残そうとも、優先されるのは支配下選手という理不尽な思いが白根を突き動かした。

ソフトバンクからの来季の育成契約打診を蹴り、自ら自由契約を志願。12球団合同トライアウトへの参加を表明し、支配下登録を結んでもらえる球団を探す道に出たのだ。自身の残した成績から、自信はある程度あったという。しかし不安で不安でたまらなかったと語る。というのもこの決断、もしトライアウトで声がかからなければそのまま引退となるまさに背水の陣。自らの進退をかけ大一番に臨んだ白根、結果は7打数3安打、長打を2本放ちみごとアピールに成功した。

そしてこの時手を挙げたのはDeNAベイスターズだった。トライアウト後、DeNAの高田GMが「うちはチーム事情で獲得することはないと思う」と明言していただけにまさかの入団だったが、白根本人も驚きを隠せなかったという。強打の右打ち内野手、代打要員というのは左打ちが多いDeNAにとっては実は好材料。代打の切り札後藤にも衰えと怪我が見られるようになったこともあり、新戦力を募集していたところに白根が登場した形になった。実際同年のドラフトで育成2位で右打ちの大型内野手の山本武白志選手をドラフトで指名していたこともあり、投手、捕手、守備が固い二遊間に次ぐ補強ポイントであることは明白だった。白根と同世代である20代前半の内野手は不足気味だったこともあり、今回の支配下契約と相成った。
 実は白根、少しだけDeNAに縁があった。白根の出身である開星高校からは現役でもう一人プロ野球選手がいる。その選手こそ、今やDeNAベイスターズの主力選手である梶谷隆幸だ。白根とは5つ年が離れているため、直接の先輩後輩関係ではなかったが、同郷の先輩の存在は白根には心強いに違いない。
「いつか開星の先輩後輩でクリーンナップを務めたい」と語る白根の姿にはついつい期待をしてしまう。

 勇気ある決断を乗り越えた白根、「ハマのジャイアン」として、その名前がまた新聞に踊る時を心待ちにしたい。

テーマ : プロ野球
ジャンル : スポーツ

#177 長い冬を乗り越え「琴奨菊 和弘」

 2016年1月場所、10年の長きにわたる日本出身力士の冬の時代はひとまず終わりを告げた。2006年1月場所で当時大関の栃東(現 玉ノ井親方)が優勝して以来、日本出身力士の幕内最高優勝が途絶えていた。しかし2016年1月場所で、大関の琴奨菊が14勝1敗の成績で優勝を果たしたのだ。(注 日本出身力士という呼称が用いられるのは、モンゴル出身であり、日本人に帰化した旭天鵬(現 大島親方)が2012年5月場所で優勝しているためである。)

 ひとえに今回の優勝をうれしく思い、早速取り上げさせていただくことにした。
私が相撲をよく見るようになったのは2013年頃からだろうか、時はまさにモンゴル力士の全盛と言っていいだろう。朝青龍の最盛期からおそらく双葉山と並び歴代最強と呼んでも差支えが無いであろう大横綱白鵬にバトンが渡り、その白鵬を超えるスピード相撲を展開する日馬富士、2014年に横綱昇進を果たした鶴竜、この3人の間に琴欧洲、把瑠都、照ノ富士、旭天鵬の4人が何とかちょこちょこ優勝をしていたのみであり、完全に日本出身力士はメンツをつぶされている状態が長く続いた。
 
 そもそも大相撲史に大きく名を残すような名横綱が2人立て続けに出てこられてしまったら、国籍がどうとかあったものではないが、残念ながらこの二人の壁はあまりに厚かった。のちに青白時代と語られるのではないだろうか。

 そんな折、悲願の初優勝を決めたのが琴奨菊関だ。2005年の新入幕からも10年、いまや前回優勝の栃東を知る数少ない力士となってしまったが、まさか10年ぶりの優勝がこの琴奨菊だと予想していた人はほとんどいなかったのではないだろうか。

というのも、琴奨菊は慢性的な膝の怪我や、取組中のアクシデントで負った大胸筋断裂などの大けがも多く、大関昇進後の2ケタ勝利数も大きく稀勢の里に譲っており、角番も何度か経験をしていたためだ。実際優勝前の場所にあたる2015年の11月場所では8勝6敗1休とぎりぎりの成績で切り抜けており、場所の終盤では怪我で休場を強いられていた。むしろ力士としては崖っぷちだったと言っても良いかもしれない。そんな中迎えた琴奨菊の初場所は周囲の予想を大きく超えたものであった。

 琴奨菊の得意技は左四つに組んでからのがぶり寄り。相手を大きなお腹に乗せるようにがぶり寄るため、相手が万全に四つに組めていなければ、あっという間に土俵の外へ追いやる威力がある。特に琴奨菊のがぶり寄りは特殊で、四つに組めていなくとも、強引に相手を抱え込んだままがぶったり、前まわしからがぶったりと、ほかの力士が仕掛けないような状況からでも強引にがぶり寄りを決めることができる。これによりついに付いたあだ名は「ガブ」、この名前は琴奨菊本人も公認のもので、自身のブログタイトルにも使用していた。

 ただ、がぶり寄りを仕掛ける試合があまりに多いため、格上の白鵬や、前さばきが上手な安美錦や栃煌山相手だとがぶり寄りをつぶすような立ち合いを仕掛けられ負けることも多く、イマイチ勝ちきれない場面も目立った。

 しかし初場所の琴奨菊は一味違った。あっさり変化に屈する場面も以前は目立ったが、下半身の強化が実ったのか、今までよりも立ち合いが安定し、前に崩れない立ち上がりを見せるようになった。場所の終盤、白鵬、日馬富士、鶴竜の3横綱を破った試合ではしっかりとした立ち合いから得意のがぶり寄りに持ち込んでおり。まさに琴奨菊の型で破った印象的な取り組みだった。
 唯一の敗戦となった豊ノ島戦は、まさに豊ノ島のうまさが光った一戦と言えよう。優勝争いをしていたこともあるが、あの状況でとったりを決められるのは、琴奨菊の古くからのライバルである豊ノ島だけだろう。

 来場所は綱取りの期待が掛かる、直近の成績がイマイチなため、全勝もしくは再度3横綱を破っての優勝でもしない限りは推挙はおそらく厳しい。優勝への期待はもちろんの事、今回の優勝はまぐれだったと言われないようにここから一味違った琴奨菊の姿を見せてほしいと思う。

来場所ではルーティンの琴バウアーでの歓声もより一層違ったものになるに違いない。

テーマ : 大相撲
ジャンル : スポーツ

プロフィール

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Author:ppsnuwa
趣味に生きたい社会人
野球とF1とゲームと漫画をこよなく愛す
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