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#200 さらばハマの番長「三浦大輔」

 9月20日、衝撃的なニュースが駆け巡った。横浜DeNAベイスターズの三浦大輔選手が引退会見を行うというものだった。1992年から2016年までの25年間を横浜で過し、現役最後の横浜大洋ホエールズ在籍経験を持つ選手だった。そして投手として24シーズン連続安打のギネス記録を保持しており、23シーズン連続勝利のNPBタイ記録も保持している選手だ。
現在NPB現役最年長選手でもある三浦は今シーズン2度先発していたものの、4回6失点と4回2失点で降板しており、どちらも負け投手となっている。本人も二度目の先発である阪神戦にて勝利できなかったことが引退を決意した理由と語っており、試合後GMや監督、オーナーに引退を申し入れたという。チームメイトには初のCSを決めた9月19日の試合後に引退を発表、その翌日に会見を開いた。引退理由としては非常にシンプルな内容、「自分の投球で勝てなくなった。」と語り、自分の引き際を悟ったという。

通算172勝184敗、長く弱小チームのエースを務めた三浦は12の負け越しを記録している。通算3000イニング以上を投げ、球団史上としても3番目の勝利数を挙げている球団史に残る大エースが負け越しているというのは、まさにベイスターズというチームを表しているように思う。インタビューなどで他の球団ならば200勝できたのではないかと問われるが、「俺は横浜の三浦大輔」と断言し、たらればを許さない。何よりその真摯な姿勢がファンを惹きつけてやまなかった。

三浦は奈良県出身、高田商業高校時代は甲子園出場はかなわなかったものの、1991年のドラフトで横浜大洋ホエールズに6位指名を受け入団。今や背番号18は三浦の代名詞でもあるが、入団当初の背番号は46だった。
リーゼントをビシッと決めているせいでヤンキーと思われがちだが、実は人格者というギャップが面白い三浦、しかし高校時代は本当にヤンキーだったとのこと。一度高校一年時に不登校と退部騒動を起こしたこともあった。ちなみにリーゼントを始めたのはプロ入り以降、広島から上京し横浜に降り立ちロックバンドとして大成功した敬愛する矢沢永吉のキャロル時代のスタイルをまねた
 高卒ドラ6ながら入団一年目に一軍で登板機会を与えられた。1992年10月7日の巨人戦、くしくも翌年から横浜ベイスターズに球団名が変更され、消滅することになった横浜大洋ホエールズ最後の公式戦で、ホエールズのエースだった遠藤一彦の引退試合だった。
「俺もあんな引退試合をしてもらえる選手になる。」と決意した三浦、その活躍はまず自分の実力を理解するところから始まった。特別に早いストレートもなければ、すさまじい変化球もない、そんな三浦が活躍するために徹底的に鍛えたのはスタミナとコントロール。変化球を絶妙にゾーンに出し入れするピッチングと、内角いっぱい外角いっぱいにズバリと投げこむストレート。そして相手のタイミングを完全に狂わせる100km/h未満のスローカーブで見逃し三振を量産した。通算与四球率は2.42、まるで技巧派のようなふれこみではあるが、通算奪三振は2481個を記録しており、これはNPB歴代9位の記録であり、高い奪三振能力を示している。そして通算イニングは3276イニングを投げた。ここ20年で3000イニングを超えたのは工藤公康と山本昌の二人だけであり、戦後間もない選手の記録がひしめく投球回記録でも歴代18位という高い数字を残している。つまりは安定して長期間活躍したことの証であり、三浦が長い間戦力として第一線をキープしていたという証明でもある。

1995年から先発ローテ入り、97年に10勝を挙げ初の2ケタ勝利、翌98年から代名詞となった背番号18に変更し、12勝を挙げリーグ優勝に貢献。しかしこのころから三浦は肝機能障害に悩まされしばし離脱するケースが増える。日本シリーズの登板では、制球に苦しみ早い回でノックアウトされる。本人も日本シリーズで結果を残せなかったことを非常に悔いており、いつかリベンジをと燃えていた。2000年頃からチームのエースとなる、右肘の骨片除去手術などで一時離脱もあったものの、2004年のアテネ五輪メンバーに選出。銅メダルを獲得した。翌2005年は200イニング以上を投げ、最優秀防御率と最多奪三振の2冠を獲得し、初のタイトル奪取となった。しかし翌2006年に三浦に試練が降りかかる。

2006年から不正投球の規定が厳格化され、2段モーションがボークに判定されるようになった。三浦も2度足を上げる2段モーションで投球を行っており、唐突なフォーム改造を余儀なくされることになった。(同じく当時楽天イーグルスの岩隈久志もフォーム改造を余儀なくされ、この年成績を落としている。)しかし三浦は勝ち越しこそ果たせなかったがこの年リーグ最多完投と最多完封を記録し200イニング以上を投げている。

2008年、三浦の心は大きく揺れ動いた。2003年からの6年契約が満了しFAを行使することを発表、幼少期からのファンであった阪神タイガースとの移籍交渉が行われた。当時の状況で言えば、阪神は強打の優勝候補であり、横浜は3番に.378のハイアベレージを残し首位打者を獲得した内川、本塁打、打点の2冠を取った村田、30本放つ若手の5番打者の吉村というクリーンナップを擁してなお最下位という暗黒真っただ中にあった。優勝したいという気持ちと横浜ファンの残留を願う声に相当な葛藤があったに違いない。三浦はここで残留を発表、ファンの声と阪神側の失言への怒りでFAを思いとどまり「横浜で勝ちたい」と会見した。

しかし2008年時点ですでに34歳を迎えていた三浦、ここから思うような成績をなかなか残せなくなり始める。翌2009年は195イニングを投げ11勝11敗と存在感を見せたものの2010年はまさに試練の年、開幕から不調が続き16年ぶりに100イニングを下回る投球回と3勝8敗と大きく負け越してしまった。2011年も開幕に出遅れ夏場から1軍復帰、わずか5勝でチーム最多勝という非常に苦しいチーム状況の中投げ続けた。そしてここで親会社がTBSからDeNAに変わり、チームは新しい船出を迎えることになる。

2012年、横浜DeNAベイスターズの初年度となったこの年は三浦にとってもメモリアルな一年となった。4月1日に勝ち投手なり、DeNAベイスターズとしての初勝利を掴みとると7月には巨人戦にて勝利を挙げ通算150勝を達成し、前半戦で8勝を挙げるなど好投を続けた。しかし後半戦に入るとなかなか勝ちに恵まれず1勝どまりとなり、3年ぶりの二桁勝利はならなかったものの、リーグ最多の6完投を記録し健在っぷりを見せつけた。

2013年も9勝を挙げたものの、13敗と4つ負け越しを記録。この年はベイスターズ打線がリーグ最多得点を挙げた年だったが、三浦も最多敗、最多被安打、最多被本塁打、最多失点、最多自責点を記録してしまった。しかし175イニングを投げ防御率自体は3.94というまずまずな数字を残しており。球団最年長記録である39歳3カ月での完封勝利も記録している。

2014年からは選手兼投手コーチの肩書が新たに加わることになる。そして今季から中10ローテでの登板ペースに変更、春先は思うように勝ちが伸びなかったが、8月に入るとフル回転、ローテーション間隔も詰め月間3勝0敗、防御率1.20 1完投を記録し月間MVPに輝く活躍を見せる。2015年も同じく中10ローテで回り6勝6敗を記録。この年に安打を放ち、23年連続安打を記録、投手記録としてはNPB史上最長となった。そして山本昌や斉藤隆、谷繁元信など、三浦以上の年齢の選手が相次いで引退を発表し、NPB史上最年長選手となった。

そして迎えた2016年、ベイスターズの先発投手ローテは開幕から安定しており、ついに三浦が割って入る余地がなくなった。投手コーチに就任してからは、「自分に出番がない状態が理想」という旨の発言も行っていたため、三浦コーチの願いがかなった瞬間でもあったが、逆に言えば選手三浦としては引き際を悟る瞬間でもあったに違いない。7月に入ると山口の負傷離脱と今永の疲労による2軍落ちと変則日程もあり、ついに登板機会を得る。

7月11日の中日戦に、プロ野球新記録となる24年連続勝利の記録を懸けて先発登板。しかし突きつけられた現実は厳しいものだった。4回6失点、6失点はすべて初回に取られたものだった。その初回はまさに悉くどの球種も痛打されるというもので、現在の三浦の状態を表していた登板となってしまった。そんな中でも安打を放ち連続安打記録を24年に伸ばし、メジャーリーグ含めた最長記録を更新したため、ギネス世界記録に認定された。そして試合翌日に登録抹消、再度2軍での調整を余儀なくされる。
2度目の登板は9月16日に訪れた。対阪神戦、初回に福留に2ランを浴び2点を失うものの、失点はこれのみに抑え5回2失点で降板。しかしこの後DeNAは逆転できずそのまま敗戦する。前述のように自身の投球で勝てなくなったと悟り、この日に引退を決意しオーナーとGM、そして監督にその意向を伝えた。そして9月20日に引退会見を開き、ホーム最終戦にて先発しこの試合を最後に引退すると発表。異例のガチンコ引退試合となった。  

そして迎えた9月29日のヤクルト戦、横浜の選手は全員背番号18を付け試合に臨んだ。初回に両チーム1点ずつを取り合い迎えた2回。この日1軍初出場初スタメンで出場した廣岡大志に初打席初ホームランとなる3ランを献上してしまい、2回4失点。しかしその裏、三浦自身のヒットから打線がつながり一気に4点を奪い逆転、チームの三浦に勝たせたいという気持ちが形となったような攻撃だった。
しかしその後も三浦はヤクルト打線につかまり、6回終了時点で10失点。公式戦の登板としては自己最多失点となった。そして迎えた7回先頭打者の雄平にストレートを3球投げ込み空振り三振。号泣する捕手の高城につられてか最後は三浦も涙を浮かべながらのピッチングとなった。
結局最終戦はこのまま終わり、NPB新記録である24年連続勝利は逃したが、三浦大輔が横浜に残してくれたものがたくさん詰まった試合となった。最後の引退セレモニーでは「これからも三浦大輔はずっと横浜です、ヨロシク!」と締め、背番号と同じ18回空を舞った。そして三浦の付けた背番号18は「横浜ナンバー」と位置付け、準永久欠番扱いとなり、三浦と球団が跡を継ぐに相応しい選手が現れた時に判断をし、その番号を譲る形となった。

何よりファンに愛され、ファンを愛した三浦大輔の引退にふさわしい舞台だった。ラミレス監督の粋な計らいと、全力で三浦のピッチングに答えたヤクルト打線、三浦に引導を渡すという意味ではこれ以上ないものだったのかもしれない。打たれてもなお立ち向かうハマの番長の背中はやはり大きかった。

これからベイスターズは日本シリーズ出場を懸けてCSを戦っていく。三浦を日本シリーズで胴上げする最後のチャンスでもある。これからのベイスターズを担う選手たちに大きな期待をかけて、そしてこのCSを全力で戦い抜いてほしい。
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テーマ : プロ野球
ジャンル : スポーツ

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